雪解けの汚水

精神状況の吐露

一時の安寧

 なんとか難を逃れたようだ。私は死を一時的に免れた。「柱」の修復は終わり、今では安定状態にまで回復した。自らの幸運に感謝しているところだが、心のどこかでは崩れて潰されていたほうがこの先幸せだったのではないだろうか、などと考えてしまう。

 「死ぬこと」はすなわち終着点、終止符である。ピリオドを打ち、人生という名の物語を終わらせることである。もうその人には二度と会えなくなる、永久の別れを意味している。悲しいこと、残念なこと、辛いこと、さまざまなマイナスな言葉で言い表されるものである。

 だが、所詮それらは一般的な思考に過ぎない。一般と言うのは、すなわち「シアワセナモノ」たちの考えである。人間の世界は一般的である。社会も一般的である。常識も一般的である。だが、全ては一般的でない。天国の反対には地獄があることと同じように、物事に対称なものは付き物である。一般にも対称的なモノは存在する。長々と当たり前のことを綴ったが、これは私が幼い知識を振りかざして、難しい文章に見せようとしているものではない。私にとって、これはただの自己紹介なのだ。つまり、主観という狭義的な範囲の中では一般の対称物はこの私なのだ。私こそが一般に仇す裏切り者の反逆者なのだ。

 前述の通り、一般とは「シアワセナモノ」のことである。その反対である私は不幸せなものと言えるが、微妙にニュアンスが正しくない。というより、この言葉では内包する意味が不足しているのだ。そのため、私は一般と対する私を、どんな言葉で表せば良いか長年思考してきた。その結果、「不届き者」こそが、この場合の私に適する表現だと気づいた。一般の立場から私を糾弾する言葉で、これ以上の適切なものはそうないだろう。そう、届かない者なのだ。あらゆる面において、私は一般には程遠いのだ。そのため私は親友にこのような馬鹿らしい屁理屈を並びたてているのである。

 閑話休題。一般的に言うと、死はマイナスである。掘り下げると、一般というのは「シアワセナモノ」のことである。シアワセというのはプラスなものである。つまり一般とはプラスな者たちの集まりである。その対称である私はつまりマイナスということになる。もっとも、対称などという関係を用いなくても、私の本質がマイナスであることなど、これらの文章を一行拾って読むだけでわかることではあるが。つまり、プラスな一般にとっては死はマイナスでも、マイナスな本質を持っている私にとって死がマイナスであるとは限らないということが言いたいがために私はここまで駄文を綴ってきたのだ。(2018 07 09)